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関西拉致監禁被害者の会ブログより
現在ニューヨークに在住されているH氏の過去の体験談をアップします。
H氏の拉致監禁に関わっていた人物は、現在、青谷福音ルーテル教会のO氏です。
この体験談によれば、理知的な態度の根底には、統一教会の信仰を捨てさせるためには精神病院を用いて信者の人格を破壊する事も厭わない非道さが如実に浮き彫りにされます。
そして、揉め事の記憶がほとんどない程、仲睦まじい家族の絆を、本人の意思を無視し、人権を蹂躙する強制力を持って引き裂き、修復困難な状態に陥れている事にあります。
以下、Hさんの手記です。
私は1963年に生まれ、大阪府と奈良県を結ぶ生駒山中腹にある村で育った。両親と2人の姉とともに、末っ子の長男として大事に育てられた。
実家は建設業を営み高度経済成長期の時代の恩恵の中にあり、事業は順調で経済的には恵まれた環境で育った。家族仲も大変良く家庭で揉め事があった記憶がほとんど無い程だ。
両親から信頼されて育った青年期は放任的な自由が与えられた学生時代を過ごした。
1985年大学3年生の春、私は統一教会に入教する。きっかけは街頭アンケートだ。
大学は哲学科宗教学を専攻し人生について本質的に考えるタイプの人間であった。父は信心深い仏教徒であり、その父と共に、毎晩般若心経を先祖供養の為に仏壇に向かって唱え、死後の世界や霊界についての話は父親からもよく聞かされていた。
そんな環境に育った私も高校時代から『人生』『愛』『生きる』などの題名がついた本を読みあさった。又、様々な新興宗教の本も読み、人類歴史に残る多くの争いが宗教の摩擦だったことを改めて認識し、世界の平和は宗教の問題の解決無くしては不可能なことや、複雑な社会問題と人間根底にある難問が宗教と深い関わりがあることなどを悟っていた。
傲慢にもその時期には自分なりに宗教に対する答えがあり一つの宗教に私の持論自宗教を覆す事はできないと言う自負心があった。その持論自宗教の結論はこうだ。
釈迦とイエスとマホメットが霊界に行き、神の前でその聖人達がお互い喧嘩してるのか?と言う疑問に対しての答えを悟ったからである。答は当然『ノー』である。
それを悟った私は、今まで悩んで来た宗教に対する偏見が無くなり、心の中にある宗教の壁が音を鳴らして崩れ落ちていくと同時に開放された思いになった。
それは苦しみ悩みながら真理を探求した高校時代、浪人時代、大学の2年間の努力の結果だった。
しかし、同時に私を襲ったもう一つの疑問は、私が悟り救われた思いがあったとしてもどうしたら他人を救い、世界を平和に出来るかだ。その1つだけ自分に出来ない事は、その悟った内容を伝えること、それは途轍も無い事だ。
呆然とほぼ諦めていた頃に統一教会、文鮮明氏の教えと出会ったのである。それは、衝撃的であった。
私がやりたかった事をもう既にされて、宗教統一で世界平和の実現を目指しているそのような方がいる、その方に付いて行こうと決めた。
私のそんな真理探究に対して好意的に見守ってくれていた父に、真っ先に統一原理の話をして、統一教会の目指す地上天国実現や、文先生の存在などを話した。
父は喜んで聞いているようであったし、『ええことゆっとる』と自分でも統一原理を読んだりしていた。
それぐらい私に対して理解がある両親が、どうして私を拉致監禁するに至ったのか。
そのきっかけとなったのは私が1988年10月30日6500双の国際合同結婚式に参加し、韓国人と約婚したことだ。
韓国人に対する差別意識が両親の不安となりそこに付け込むように統一教会員に反対するキリスト教牧師の指導を受け、私を拉致監禁して、強制的に棄教を迫る手段を選んだのだ。
1989年1月上旬、私が大阪の実家にに帰った夜、そこには親戚が集まっており、私が夕食を済ませた後、義理の兄から話が始まった。
『お前、本当に統一教会を辞めへんのか?親戚が反対しても韓国人と結婚するんか?』など質問して来た。
『うん俺が決めたことやし俺は俺の意思で結婚相手を決める。』と言った。
すると、すかさず私の両脇に叔父と義兄が来て、私の両腕を抱え、家の裏に準備してあったバンに詰め込み、どこに連れて行かれるか私が解らないままに、車は夜の山道を進み始めた。
車中で 暫くすると私は強い眠気に襲われそのまま意識を失くした。恐らく睡眠薬が夕食に混ぜてあったのだろう。
気が付けば4人の男性に体を持ち上げられベットに押し倒された。そこは一つの小さな部屋、精神病院の独房だった。
鉄のドアが閉められ一人残された私は、自分に何が起こったのかわからず暫く目の前が真っ白い状態になった。
絶望と裏切りが入り交じった言葉では言い表すことが出来ない失望のどん底に陥ったのだった。ベットと便器、冷たい木の床は薄黒く光り、湿った部屋の天井近くに一つの小さな窓があるだけ。 そこから入る光は殆ど無ない。
トイレは自分で流せない、汚物は1日3度の食事を運ぶ看護師に頼むまでそこに留まる。部屋の臭いは想像にも及ばない。
食事は鉄のドアの下部にある小窓から差し出される。まるで獰猛な動物扱いだ。一日24時間その部屋で過ごす。
もちろんテレビもラジオもない。雑誌や本も一切渡されなかった。一日中何もすることが無いのである。
その精神状態はこうである。とにかく寝る。
寝れば夢の中だけ自分は自由になれる。
目が覚めたらそこは独房、悪夢の反対。悪現実である。
人間寝る時間も限界がある。ベットとトイレその部屋で如何に時間を過ごすか?
私は自分で筋肉トレーニングを考えた。
腹筋20回、腕立て20回、ストレッチをして、ヨガをする。 瞑想に耽って神に祈りを捧げるのである。
そしたら文先生の教えが頭に浮かぶ、ゴキブリが現れると慕わしくて話しかけたくなる。そんな体験が、ある人の体験と重なって思える自分が居るのである。
確かに文先生も同じような、いやこれ以上の酷い環境を越えられてきたということを思い出す。普通なら気が狂いそうな環境を、自分が奇跡的に乗り超えてこられた原動力は信仰にあったことを確信する。
独房には約一ヶ月いたと思う、その間の記憶が無いのは記憶する為の出来事がないほどに毎日が同じ繰り返しだからであろう。
一つ強く記憶に残っていることは、向側の部屋に、一人の男が一日中、狂った様に叫び、鉄のドアをけりまくる。
鉄のドアにある小窓からその男を覗くと、その男も小窓から顔を出している。広く突起したオデコ、眼をむき出し、上唇を尖らせたその恨みに満ちた顔は今も脳裏に焼きついている。
主治医と言われる精神科医が治療と言う形で、数回独房に来たが尋ねることは、『どう?具合は?』と言うぐらいだった。
私がどういう理由で入院させられているかは知ってるようなので、あまり信仰的な発言はしない様にした。毎日薬も渡されるが、飲む振りをして、トイレに流した。
父親と義兄が順番に週一ぐらいに見舞いに来た。ひと時でも、その独房から出れることがどれほど嬉しいことか、見舞いの目的が強制改宗させる為の、説得だと解っていても、窒息しそうな独房から出れること事態が有難かった。
面会に来た父親は、統一教会の教理である、原理講論と聖書との違いと統一原理の矛盾を指摘した。仏教徒の父に聖書に対する知識があるはずも無い、その背後に統一教会に反対する牧師の存在を私は確信した。
最初、親の面会時に日記を書くように言われ、私の信仰が崩れて行くのを確認する為だと、悟った私は、その日記に、統一教会に対する失望と、後悔の思い、離教した後は親孝行する旨の内容を記載した。偽装脱会である。
そうしなければその独房から何時出られるか解らない。このまま何時まで精神病院で過ごすのか?そんな絶望的な状況下の判断である。
生憎2ヶ月目には、テレビのある大広間に移され、そこには、会話がやっとな状態の様々な症状を抱えた精神病者が20人ほど雑魚寝をしていた。夜になると、私は独房のベットで寝かされた。
そんな環境で一カ月が過ぎた、その間もあまり記憶が残っていないのだが、一つ強烈な記憶を紹介しておこう。
それは、お風呂である。
記憶はほとんどないが、その期間、唯一外の空気が吸えたことを覚えている、みんな順番に並んで、大衆浴場に移動する。銭湯の様な感じの大浴場だ、そこに入った時、一緒に入っている患者は所構わず尿をすませ、風呂の湯船には、汚物が浮遊していたのを憶えている。
そんな二ヶ月が過ぎ、3ヶ月目には、少しオープンなベットが15ほど並ぶ小奇麗な病室に移された。そこは少し軽い症状の患者が入院しており、一人ひとりとそれぞれ話が出来た。そこにいる殆どの人たちの症状は、幻聴、幻覚、不安などであるが、彼らも病院を早く出たいが為に、主治医には、もう幻聴、幻覚は無いと言ってるそうだ。
中には遺産相続剥奪の為に、兄弟によって入院させられていると言う者も居た。その病室の2階は大広間になっており、昼間は患者たちと看護師達が一緒に内職をする。
洗濯バサミを円形の型版に繋げる作業だ、靴下や下着を吊り下げるそれである。病院の収入にするのか?いささか疑問である。
その他に、レクレーションをする時間があった。ソフトボールである。それまでの間、筋肉トレーニングを怠らず続けてきた私の腕で打つボールは全てホームラン様の当たりだ。
看護師が私に言う。
『7月の病院対抗ソフトボール大会には、4バッター確実やな!』
(7月までこの病院に居るのはごめんだ!)
と心の中で叫んだ。
(続く)
コメント
全国ラリー12.3に参加してきました。
国会に請願書も提出しました。継続的に活動していきます。人権の蹂躙は有ってはなりません。 (2010/12/04 10:40:49 AM)