最後の話し合い
麻子と美佐は戸塚教会の勉強会で、統一教会の問題点を話しながら、「でも保護説得だけはやめて欲しい」と、機会あるごとに訴えた。
黒鳥は暖簾に腕押しの態度だったが、それでも「麻子さんのような路上保護はやめたほうがいい」と話していた。麻子らの真撃な願いが通じたかに見えた。
教会の空気が一変したのは、99年のはじめに黒鳥・清水が今利理絵から訴えられてからである。前述したように「路上での拉致」「監禁下での棄教強要」を理由に損害賠償請求訴訟を起こされたのだ。
戸塚教会は「お世話になった黒鳥先生を守れ!」「裁判に勝利しよう」と団結し、2人が所属する日基督教団も支援態勢を組み、カンパ活動を開始する。
麻子は「理絵さんの苦しみを知りたい」との思いから裁判を傍聴した。そして裁判後に催された支援者集会で「統一教会は問題だが、監禁は本当に苦しかった。少なくとも強引な”路上保護”だけは絶対に止めてほしい」と訴えた。
すると、脱会者の父兄から罵声が飛んだのだった。
「なんてことを言うんだ!おまえは統一教会と黒鳥先生のどっちの味方なんだ!」
以来、黒鳥は麻子たちと距離を置くようになる。麻子が電話をしても黒鳥は電話を切りたがった。それまで両親のところに頻繁にかかってきていた勉強会仲間からの電話も途絶えた。
―2年後の01年12月、麻子たちと黒鳥は麻子のアバートで”最後の話し合い”を行う。
当初は「みんなのことを心配していたのよ」と話していた黒鳥だが、拉致監禁に話が及ぶと「私がなんで重荷を背負わされるのっ!」と怒り出した。
同席した裕美が、「麻子さんたちがこんなに苦しい思いをしてきたのがわからないのですか」と、懇々と諭すと、長い沈黙が続いたあと、黒鳥は突然泣き出したのだった。
「申し訳ないことをしました……。じゃ、失礼します」
その後、現在に至るまで音沙汰はない。「最後まで責任を持つ」と麻子に約束していたにもかかわらず、だ。
麻子の複雑性PTSD発症の原因を担当医は次のように見ている。
「本人の意志に反し拉致監禁されるという身体的自由の拘束とともに、信仰の自由を強制的に、昼夜を間わず奪われ続けたこと、さらにはもっとも近しい肉親に監禁されたという、信頼感の崩壊、裏切られた体験も加わっていると考えます」
監禁された信者の中には、脱出を試みて洗剤を飲んだ者(京都)、同じくトイレで消毒液を飲んだ者(東京)、逃亡のため高層階のベランダから飛び降り、今なお後遺症に苦しむ者(兵庫)、そして監禁中に自殺した者(京都)もいる。
刑法に反する危険な行為であることを知りながら、保護説得の必要性を信者家族に説き、拉致監禁へと誘導する。そして脱会後は元信者の苦しみに向かい合わず、知らん顔を決め込む……。聖職者である彼らに罪の意識はないのだろうか。
黒鳥、清水の両牧師また高澤牧師は、自らが関わったこの間題をどのように考えているのか。
何度か取材を申し込んだが、今日に至るまで一切口を閉じたままである。
彼らを支援する、反カルトで名を売った弁護士の一人は、黒鳥、清水も会員である「日本脱カルト協会」の会合で、「(米本から)取材申し込みがあるかもしれないが、十分に注意するように」などと呼びかける始末である。
10時間以上にわたるインタビューは、母親の涙でしばしば中断された。
「結局のところ、私たちは黒鳥先生のマインドコントロールによって、脱会には保護説得しかないと思い込まされてしまったんです。
その結果、麻子を深く傷つけてしまった。姉を監禁したことで妹も傷ついている。後悔しても後悔しきれません」
うなだれる両親。脱会して9年が経つというのに、依然、社会に戻れないままの麻子。
突然、「宗教戦争の犠牲者」という言葉が思い浮かんだ。それも、誰からも顧みられることのない……。
(文中敬称略)
よねもと・かずひろ 1950年島根県生まれ。
企業、教育問題から新興宗教まで、幅広く執筆活動を行う。
著書に『カルトの子』(文藝春秋)ほか
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