アメリカで拉致監禁活動衰退していった経緯を知るカトリック信者の著名人が、強制改宗問題に関して日本で講演活動を行った事がありました。
彼の講演内容には、この問題を解決する鍵が含まれていることを感じています。
長い講演内容を要約して以下に紹介しておきます。
超教派著名人による「強制改宗と信教の自由」講演
宗教運動に関するアメリカ協議会会長
マーヴィン・ボーデロン師
私は個人的にはローマ・カトリックの信者です。
そしてこの協議会の委員には、カトリック、プロテスタント、
新興宗教、さらにユダヤ教からも代表が送られております。
一部の教派は参加してはならないということではなく、どのような教派からも協議会のメンバーとして受け入れております。私達はこのことが大変重要なことであると信じております。
アメリカの宗教間関係
宗教団体の主流といいますと、私達はカトリック・プロテスタント・ユダヤ教を指します。一方、新興宗教や小さな教団は数の上では非常に多く存在しています。
例えば、エホバの証人、モルモン教、セブンスデー・アドベンチスト、バハイ教、統一教会、サイエントロジー教会、ハレ・クリシュナなどです。
・・私達の協議会ではいかなる教団をも排他的に扱ってはならないとしています。
あなたが個人的にいかなる宗教組織に入っているかを問いません。
・・私達は、皆さんに何を信じてほしいとか、何を信じるべきかというような内容に審判を下す事はできません。
他の宗教、あるいは教団の良心とか信仰を尊敬する、また容認するということが、この協議会の信条であると考えています。
低次元の「迫害」
宗教間の関係、関わり合いの程度と状況において、最も低い段階は 「迫害」という段階です。
・・他の教団を潰したい、あるいは気に入らないから排斥しようとする動きがあることを知っています。
しかし、このような迫害を与えている教団は、幸いにも今日アメリカでは大変少ないといえます。
統一教会、ハレ・クリシュナ、サイエントロジー等の新しい宗教団体をアメリカから追い出そうとしている一部のカトリック神父が存在する事を知っていますが、迫害者という事のできる神父は45000人という神父の数からすると、非常に少ないわけです。
ですから私達は今、迫害という段階から互いに容認しあう段階へ入ってきたということができます。
「迫害」⇒「容認」の段階
「容認」とは、決して高い段階とはいえません。
「私はあなたが嫌いだ。しかしあなたはここにいても構わない」というニュアンスの段階です。
例えば、私は仏教徒、神道の信者は嫌いだ、と思っていても、存在する事については構わないという立場です。
自分が何かを信じる自由があるならば、他人が何を信じてもいい自由があることを守りたいという立場で一致しています。
「迫害」⇒「容認」⇒「協力」
もう一段階上がると、今度は協力し合う段階が考えられます。
・・アメリカにはまだ次のような問題があります。
貧困、アルコール中毒、麻薬、暴力、フリーセックスといった問題が解決されないまま山積されています。
しかし、アルコール中毒や麻薬の問題には正直なところあまり成功を収めていません。
サイエントロジー教会では、麻薬の問題に関して成功しているように思われます。そして、ハレ・クリシュナでは消費者の立場に立って考えています。統一教会は、アメリカ、日本、韓国など国際的に様々な交流を持ち、国際間の理解を深めていくための多くのプログラムを持っています。
ルーテル教会では教育という面で力を注いでいます。
・・・ここで私は、各々が自分の所属する宗教の信仰を捨ててまで一緒に働けと言っているのではありません。
互いの相違点を認めながらも、共通の目的に向かって協力していくことができる、ということなのです。
四段階目の関係
次に四段階目を考えてみましょう。それは、「共通の使徒」という段階です。しかし、これはまだ具体的に実践されているわけではありません。
従って、これから実際の場でどのようなことがなされるべきかについて述べていきたいと思います。
例えば、カトリックとルーテル教会の人が結婚をしたとします。
二人ともクリスチャンでキリストを信じているとしたら、その子供達にはどのような教育を授ければ良いのか?
ルーテル教会の信者としてか、カトリック教徒としてか、あるいはクリスチャンとしてかという問題です。
例えば、聖書をカトリック、プロテスタント、ユダヤ教徒が一緒になって研究することはできますが、果たして家庭のレベルで、違った宗派の人が一緒にやっていくことができるかということです。
もしできるとしたなら、これはイエス・キリストの同じ弟子であるという立場で、初めて可能になってきます。
しかし、クリスチャン以外の宗教になるとどうでしょうか?
一例をあげれば、仮に日本人の仏教徒と、アメリカ人のカトリック教徒と、ドイツ人のプロテスタント教徒が、一つの神の下に協力しあって、何かを成し遂げていく事が可能でしょうか?
これからますます国際化していく世界で、神と言わなくても、何か自分の意志を超越したものを中心として協力していくという立場がないとすれば、一体どのようなことになるのでしょうか?
例えば、経済面で物質を中心として協力し合うことができるかもしれません。
しかし、もっと何か超越したもの、例えば価値観
・・・「愛、親切、いたわり」といったものを共通の価値として認めることはできないのでしょうか?
超教派運動は現在アメリカ全土でこういったものを目標として展開されつつあるといえます。
私達は、この四つの段階、すなわち「迫害」「容認」「協力」「共通の使徒」という各段階をできるだけ早く駆け上がっていかなければならないと思います。
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