東京MXテレビで「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」で『レリギュラス』(前編)が放送されているのをたまたま観た。
怖いもの知らずのコメディアン、ビル・マーが世界各国を巡り、キリスト教の過激な信者たちをおちょくりまくるドキュメンタリー映画だ。
「聖書なんて、ただの物語だろ。」
「ヘビがしゃべったのを信じているのか?ばかげてる。」
「死んだら神の下にいくなら、今すぐ死ねば。」
・・などなど、敬虔な信者をおちょくるインタビューは、キリスト教信者を怒らせ、無心論者を笑わせる。なかなか興味深い内容だった。
福音派の絶対に聖書を信じている人たちを散々おちょくったりしていたシーンが主だったが、印象に残ったインタビューもあった。
ローマの有名な教会で、一人の牧師とこんな感じのやり取りがあった。
「こんな立派な教会を、イエス=キリストは望んでいたのかい?」
「いいや、本当のイエスならローマの郊外の小さな家に住んでいただろうね」
「教会に飾ってある様々な神像。大天使、聖者、マリア、神官、・・・。キリスト教は本当に一神教なのかい?」
「(笑)確かに多すぎるね。
こんな話があるよ。イタリアのクリスチャンに、困ったときに誰に祈るかアンケートを取ったんだ。そしたら、イエス・キリストは何と6番目だったんだよ・・(笑)」
「(笑)あなたは牧師でしょう。何とかしなくていいの?」
「ムリムリ、各自に任せるしかないさ」
「あなたは異端者みたいだね(笑)」
ビル・マーはおちょくりが通らず笑っていたが、個人的にはこの牧師はよく理解している人だと思った。
宗教は、ひとつの思想である。そして、その思想を下にコミュニティが形成されている。
私はそれはそれで構わないと思う。宗教の自由だろう。
その思想の中で、人々は愛を育み、信頼を増し、助け合う。
平和を語り、喜びを共有し、死や病気への苦痛を和らげることができる。
そこに、誰が批判できるのだろうか。
しかし、恐ろしいのは思想は独善的になりやすい。
そして、その思想によって、他の人を傷つけたり、迷惑をかけていては問題である。
キリスト教会しかり、統一教会しかり、無心論者しかり、である。
多様化された現代の社会で平和に生きるならば、思想の違いを指摘し合って喧嘩していても意味がない。
相手の立場や思想を理解して、協力できるところは協力し、歩み寄れるところを探して歩み寄るべきではなかろうか。
今でも思想の偏見が、「救出のために親が子を拉致、監禁する」などという愚行に走らせている。
コメント
信仰は、自由意志で強制する?させられるものでは、ないですね。自分の良心に従って歩んできたことに私自身、後悔は、ありません。「世界中に誰一人わかる人がいなくても神様と私との間にあった内容は、誰にも否定できない事実として存在します」み言葉通りだと実感がありますね。 (2009/12/20 02:08:49 PM)