ある保護説得被害者の陳述から・・・
牧師が考える理想的な拉致監禁(救出カウンセリング)とは次のようなものです。
1.親とか家族が統一教会に入った子供を心配のあまり、無理やりつれてきてしまった。
2.でもよく話してみたら、本人も統一教会のことを客観的に考えてみたい、牧師さんの話をきいてみたい、ということだったので、牧師さんに連絡してきてもらった。
3.そして牧師さんの話をよく聞いて、本人も統一教会の間違いに気づくことができた。
4.牧師さんは、本人が無理やり連れてこられたことを知らなかった。
5.また、もしも本人が無理やり連れてこられたことを知っていたにしても、今は本人も納得して牧師の話を自発的に聞こうと思って聞いている。
6.そこから逃げようと思っていないし、逃げようと思えば逃げられる自由な環境になったので、何の問題もない。
確かにこのとおりならば、さほど問題も生じないし、PTSDになることもないでしょう。このようにうまくいって何の問題もないという場合もないわけではありませんが、少し事情が違うので問題が発生するのです。
まず、【2. でもよく話してみたら、本人も統一教会のことを客観的に考えてみたい、牧師さんの話をきいてみたい、ということだったので】の部分が問題です。
また【6.逃げようと思えば逃げられる自由な環境になった】わけでもないのですが、そこは牧師は見て見ぬふりをします。
拉致監禁されている人は、まず何とかして自由になりたいと考えます。自由になるためにはどうすべきなのかを考えるのです。一生懸命抵抗し逃げようとしても自由にはなれません。
それで拉致監禁をしている親や家族、親戚たちの話をきくと、自由になるためには、牧師の話を聞いて、「教義の間違い」に気づかなければいけないことに気づきます。
それで自発的に牧師の話をきくことにしたのです。つまりなんとか自由になりたくて、そのためには仕方がないと思って、牧師の話を聞くことにするのです。
ところがここで牧師の側にも親の側にも、大きな誤解が生じてきます。
本人が「牧師さんの話を聞きたい」というのは、半分はうそです。
(もちろん本当に牧師の話が聞きたいと思う人もいるでしょうが、この段階ではそう多くはないでしょう。)
自由になりたいから仕方がなくて言ったことばです。
親も、ああ、この子は自由になりたくて仕方がないから、そう言っているんだなあ、ということくらい分かります。
ところが親の側には、たとえこのせりふが半分うそであっても、「牧師の話を聞きたい」と本人が言ってくれればありがたいのです。牧師を連れてきて話を聞かせることができますし、統一教会をやめさせる道が開けます。
また親の側には、この「牧師さんの話を聞きたい」という言葉が本物であってほしいという願望もあります。
願望が真実を見えにくくします。
(続く)
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